コラム 「父の墓碑銘 」

~出生から~

大正の最後の時に産まれた父は、台湾からの引揚者の家族の一員だった。

海軍予科練ということだったが、運よく内地で終戦を迎えたらしい。

戦後のドサクサで成人を迎え、魚屋さんでも働いたことがあるという話しを聞いたことがある。

25歳位のころに警察官となったようである。

 

母とは岐阜の北部高富の警察にいたときに婚姻し、私、つまり長男は昭和28年3月に出生した。

当時は、郡上の駐在所に勤務していた。

当時、私の赤ん坊の写真が多い。

 

 ~岐阜~

私は、小、中学校の間に父とそんなに遊んだ記憶がない。

父は国体などの剣道の選手として合宿や練習に励んでいたようである。

また、機動隊員などもしていた。

とにかく、じっくり父と話したことはない。それは私が大人になってからも続いた。

私も少し大人になった時、父の世渡り下手に気づいた。

 

人にお世辞を言うことが下手。短気で荒っぽい。人はいいのに、他人から誤解されやすい。

世間の人はよく見ている。

母とは子供の頃から見て、よく喧嘩する方だと思った。

父は怒ると、家を何度も出て行ったようなことはよく覚えている。

家を出て一体どこへ行ったんだろう。今となっては分からない。

 

それでも、家族で映画館と銭湯へはよく一緒に行ったことは覚えている。

石原裕次郎の映画はよく見た。二谷英明の映画もよく覚えている。モスラも見た。

電気風呂にも一緒に入った。

銭湯の帰りにフルーツ牛乳を飲みたかったが、なかなか買ってもらえなかったな。

 

~昭和46年頃から~

この頃からよく分からない。

というのは私が東京の大学に行ってしまったから、どうやって生活していたのだろうか。

かなりの金銭を仕送ってくれた。かなり倹約した生活のようにも思う。

 

私が司法試験を何度も何度も落っこって、夏に岐阜に帰省すると、父は決まって川魚釣りに

連れて行ってくれた。

黙って、試験のことは一切言わず、ただひたすら川面を眺めて魚を釣った。

私が魚釣りが好きだった訳ではないが、そうする他なかった。父も黙っていた。

 

こういう生活は、昭和55年位まで続いた。よく続いたよ。

この10年間がスッポリ真っ白い記憶の時代である。私は風来坊であった。

 

世の中は分からないもので、昭和56年に私は司法試験に合格してしまった。

父は、涙を流さんばかりに喜んだことは言うまでもない。私はやれやれやっと終ったかと思った。

  mae tugi

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