コラム 「父の墓碑銘 」

~昭和59年頃から~

昭和59年に、私は弁護士となって名古屋に帰ってきた。

1年前の昭和58年に、私の長男が出生し、父はおじいさんになった。

これからが、また記憶がそんなにない。

というのは、私が忙しく、父との時間が持てなかった。

が、それでも何度か家族で海外旅行に行っている。

父の産まれた台湾にも1度行った。

警察を昭和60年頃に退職し、生コンの会社に就職した。元気に70歳まで働いたように思う。

子供たちにも剣道を教えていて、毎週楽しく練習に通っていったように思う。

生き甲斐があったように思う。

 

平成7年に、私の妻がガンで亡くなった。

死に至る6ヶ月間の闘病生活の期間は、父も母も凍結していた。

私もまた同じであった。

このときから父がよく言っていた「わしは小学校の時に母親が死んだ。」ということを言わなくなった。

2人の子供を残して去った妻は、父母に2人の子供の子育てというプレゼントを残した。

苦労したと思うが、楽しい思い出だったと思う。

 

私といえばバブル時代を謳歌していた。知らないうちに子供は大学へ行く年になっていた。

そして、父も母も老人となった。特に父は本当の老人となった。

平成18年頃から少しだけ不調を訴えるようになり、平成19年4月に父のガンが発見された。

私は、ガンの不告知を決めた。

6ヶ月の闘病の後、10月4日に亡くなった。私と母に看取られて息を引き取った。

小さくなった身体を棺に納めた。

こうやって、多くの人が死んでいく。私もまた、いずれの日かやってくると思った。

 

~最後に~

いつだったんだろうか、父と二人で警察の道場で柔道をしたことを覚えている。

私のつたない技で、父は大きく私に投げられた。父は、じっと私を見ていた。

その時に、私は父を乗り越えたような気がした。

 

父の使っていたベッドを掃除していた母が、父の書き残したメモを見つけた。

メモには、家族への感謝が書き記されていた。

 

「さんづけ」したことのない父が、私に「邦彦さん」ありがとうと書いてあった。

それが精一杯の父の気持ちであることはよく分かった。

 

さようならと思った。

  mae 

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