コラム 「読書をするということ」

時々ですが、何故そんなに読書するのですかと聞かれることがあります。

ふと考えると確かにそうです。

別に試験がある訳でもなく、頭がよくなるという事もないです。知識が若干増えるが、

すぐに役立つものでもないです。

 

考えてみました。

読書量が多くなる時は、なんか世の中、生きにくいと思う時ではないかと。

自分が世の中にうまく適合しないと感じるとき、生きにくいから、なんかこうもっと

生きやすい生き方があるんじゃないかと思う時に読書量が多くなる事は確かであると思います。

生きにくいといっても世の中を変えることなんてできないもので、自分を合わせようと

思わないこともないのですが、変えることなんてできないことはよく分かっているんです。

 

でも本を読んでいると、いろいろ、そーか、そーかなんて教えられることも多いですね。

そんな時、仏教本なんかも多いですね。

また、力道山とか小林旭とか水原弘なんかの伝記のような本もいいですね。

そーかそういう生き方もあるのかと思いますね。

弁護士のもっている知識なんか知識としてあるだけで、それは全く救いになんかなりません。

知性とか教養も役に立ちませんね。そーか、そーかという本の話しの流れが救いになりますね。

 

中原中也の詩にこういうものがあります。

 

「月夜の晩に、ボタンが一つ/波打際に、落ちてゐた。

それを拾って、役立てようと/僕は思ったわけでもないが

なぜだかそれを捨てるに忍びず/僕は、それを袂に入れた。

 

月夜の晩に、ボタンが一つ/波打際に、落ちてゐた。

それを拾って、役立てようと/僕は思ったわけでもないが

月に向かってそれを抛れず/浪に向かってそれも抛れず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、拾ったボタンは/指先に沁み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは/どうしてそれが捨てられようか?」(永訣の秋)

これは、2才の息子を失った中原中也の詩です。

ボタンは失った息子のことですね。

息子とのたまたまの出会いと関わりの中でかけがえのないものになってしまった

ということですね。

 

親子の出会いはそういうものですね。よく分かるな。

大事な役に立つ価値があるから子供をかけがえのないものだと思う訳ではないのですね。

 

こういうかけがえのないものが人の魂、人の心を救うものかもしれないし、

心を苦しめるものにも容易に変身するのです。

  mae  

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