コラム 「重要都市~上海~」

中国の近代の歴史で、上海はかなり重要な都市であると思います。

イギリスで「ティー」(茶)が流行したのが上海の発展のきっかけではないかと思ってます。

そもそも、イギリスに嫁ぐことになったポルトガルの皇女が土産に持って行ったのが

きっかけらしいです。

そのため、イギリスの大量の銀が清国に流出してしまい、それを取り戻すべくイギリスは

インドでとれた阿片を清国に輸出したということはよく歴史の本に書いてあります。

 

「これはいかん」と、林則除という役人が阿片を取締り、阿片戦争(1840年)が起こり、

イギリスが勝ち「南京条約」が結ばれ開港となったわけです。

その後、「租界」地といわれるものが次々にできました。

 

日本も租界を要求したのですが、認められませんでした。

しかし、「虹口」(ホンキュウ)があるじゃないか、歌にもあるぞと言われるかもしれませんが、

正しくはアメリカ租界の虹口地区に日本人が多く居住して、それを日本租界といって

アメリカの中に割り込んだだけです。

 

上海旅行すると必ず行く外灘(ワイタン)の近くには租界が昔は広くて、今でも美しいビル群が

並んでいますね。

あれがそうです。次に行くところは、多分「南京路」でしょう。上海、最初の繁華街です。

 

ここには四大デパートも造られました。

1922年には上海でマジェスティック・ホールというダンス・ホールも造られました。

 

そこは1927年蒋介石と宋美齢の結婚式がとり行われたことでも有名です。

宋美齢といえば、三姉妹で有名ですね。

長女の靄齢(アイリン)、二女の慶齢(チンリン)の2人の姉がいます。

長女は、山西省の財閥、孔祥熙(タンシャンシ)と結婚し、二女は、孫文と結婚しています。

孫文は日本にいて、友人の梅屋庄吉の家で結婚式を挙げています。

その席に犬養毅も出席しています。(宋家の三姉妹はレンタルビデオにありますので見て下さい)

 

この頃の上海で、注目するのが映画ですね。多くの映画館ができました。

ところが、満州事変(1931年)、上海事変(1932年)が起きて、これら映画館が

破壊されてしまい、戦火の時代をむかえることになります。

新中国成立までの約80%が上海で作られた映画であることから、いかに中心になっていたかが

わかりますね。

 

日本軍の大規模な軍事行動に中国共産党が抵抗を呼びかけ、この頃、作られたものが

「義勇軍行進曲」です。

 

この曲は、オリンピックでよく聞く曲(国歌)なので皆さんも聞いたことがあると思いますね。

「何日君再来」もこの頃はやった曲です。李香蘭こと山口淑子も中国語で歌っています。

 

日本の憲兵隊は軍記を弛緩(しかん)させるといって、李香蘭を喚問しましたが、

日本人だとわかってうろたえたということです。

満州事変、上海事変を起こし大規模な軍事行動を起こした日本軍は、

その後も南京(首都)や他の都を破壊し始めた。

首都は現在の北京に移され、中国共産党も陜西省の北部へと移動した。

その後、日本は敗戦となりました。

中国共産党が新国家建設をめざすことになるのですが、当初、ソ連を手本に

社会主義国家をめざすということになります。

 

しかし、この方向は、1956年のスターリン批判により、自由化の方向が中国にも影響する

ことになります。

この自由化の方向に中国共産党は逆に「反右派闘争」を展開し、一党独裁を強化するように

なりました。

その勢いはとうとう「プロレタリア文化大革命」といわれる10年(1966年~1976年)の

混乱を招いてしまいました。

地主、資本家、知識人は吊るしあげられ下放といって農村で労働に従事することになりました。

医師、弁護士も勿論、下放されました。

 

この辺の状況はレンタルビデオ映画「生きる」をみて頂きたいと思います。

その文革も、毛沢東が1976年に死去し、同人の妻、江青ら四人組が逮捕されて文革は漸く

終わりました。これにより、右派のレッテルをはられた人の名誉回復がされました。

 

この頃より全人代(中国の国会)で四つの近代化が周恩来総理を中心に唱えられることと

なりました。しかし、周恩来はその1年後に死去してしまいました。

 

この人は人望のある人で、天安門の人民英雄記念碑に追悼の花輪が掲げられたのですが、

それが何と撤去されてしまうということがありました。

  mae

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